Surya Kumar BOSE氏が来日しました

2013年11月2日から9日にかけて、Chandra BOSEの親族(兄の孫)であるSurya Kumar BOSE氏が2回目の来日をし、11月6日に東京都千代田区の憲政会館で行われた「大東亜会議70周年記念大会」に参加、講演しました。
これは、Surya氏の講演内容を和訳したものです。

大東亜会議70周年記念大会でのSurya K. BOSE氏の講演内容

頭山 先生
加瀬 先生
深田 先生
中條 先生
田母神 先生
西村 先生
企画委員の皆様
実行委員会の皆様
ご来賓、及びご参加の皆様

本日、大東亜会議70周年記念大会という歴史的な行事に参加し、皆様の前に立てることは、私にとって大変な喜びです。私を招待して下さった主催者の皆様には、感謝の気持ちでいっぱいです。また、この美しく友好的な国に戻って来て、良き友人である根岸、ユキオやマンシー、大会委員の皆さんに再会出来たことは心からの喜びです。私はわずか数か月前にも来日し、どこに行っても私を温かく迎えてくれることに感動し、恐縮しました。そして私は、それが日本の人々が私の大叔父ネタジ・スバス・チャンドラ・ボースに対して持っていた、そして今でも持っている親愛と尊敬であることに気づきました。

半世紀以上前の1953年12月、当時の外務大臣だった重光葵氏は、私の父宛ての手紙にネタジ・スバス・チャンドラ・ボースは「アジアの英雄」と呼んで迎えたと書いています。重光氏は次のように書いています。

「私は、かつて親友だったと言えることが大きな光栄である、アジアのヒーロー、スバス・チャンドラ・ボースの名前を聞いて、実にうれしい。」

ネタジ・スバス・チャンドラ・ボース、または日本では単にチャンドラ・ボースとして知られ、仮政府アザット・ヒンドの長であり、インド国民軍の最高司令官だった彼は、1943年11月5日と6日に東京で開催された大東亜会議に、「オブザーバー」として招待されました。

ビルマのバー・モウ博士は、この歴史的行事を思い出しながら、チャンドラ・ボースに関して次のように言っています。

「ネタジは我々と共に大東亜会議に参加し、そこで中国の満州国、タイ、フィリピン、ビルマの指導者と会いました。彼は皆に温かく迎えられました。彼は制服を着て勇敢な闘士といった姿で、どこにいても偉大な、そして痛ましい祖国、自由で偉大な国の復帰への長い闘争の雰囲気を発散していました。自由インドは未だ領土がなかったので、彼はオブザーバーとしてのみ参加しましたが、東條首相はすぐに、アンダマンとニコバール諸島をこの新しい国家に割譲することで、これを改正しました。
東條首相はさらにもう一つのことを行いました。各国からの多数の参加者がいた会議の最終会合で、彼は私にネタジとインドの主張に関する最初の講演を行うよう求めました。彼は全世界にとって本当に良い闘争の講演が聞きたいと言いましたので、私は最善を尽くしますと約束しました。私は本当に一生懸命にやりました。私の議題の中心は、インドが自由でない限り、他のアジアまたはアジアのどの部分も本当に自由にはなれない、ということでした。そしてそれは、完全にアジア人のおぜん立てで、アジア各国が初めて集まって開催されたこの会議によって払拭された、人種的感情を打ち壊したことで、私が期待したよりもずっとうまく受け入れられました。
ネタジは、私がかつて聞いたことの無いいくつかの最も感動的な言葉で私の講演に応えました。ネタジの声は詰まり、目は涙で霞んでいたので、聞いていた全ての人にとって、それは本当に強く心に訴え、動きが取れなくなるような一時でした。時の流れの中で、偉大で強力な人達が現れ、そして消えて行きますが、彼らの中のわずかな、本当にわずかな人々が記憶の中に生き残り、さらに年と共に成長さえするのです。このような人物が、人々の究極の伝説の一部になるのです。スバス・チャンドラ・ボースがこのようなわずかな人物の一人であると信じる理由がここにあります。」

チャンドラ・ボースが日本に到着した日、1943年6月19日の新聞に寄せた彼の声明では次のように語っています。

「皆さんは日本に対するインド人の感情を知りたがっているのでしょう。日本は、アジア大陸に他民族が侵略しようとしたことを阻止した最初の国でした。
過去20世紀の間、インドと日本は親密な文化のつながりを維持し続けました。この交流は、インドにおける英国の統治により、幾分か中断されました。しかしインドが自由になった時は、このつながりは再び強固なものになるでしょう。インド人が日本に親密に協力するのは自然なことで、そうすれば彼らは自国で完全に自由に生きることができ、彼らの国家の運命を独自に形作ることができるのです。
これに関連して、1942年3月以降に東條首相によって作成されたインドに関する声明文は、インド人の心に深く入り込み、インド独立運動に支えを与えたと言わなければなりません。」

私たちは今日、70年前にここで開催された歴史的会議を記念するためだけに集まったのではなく、将来に向けて私たちの知力を注ぎ、過去からどんな教訓を引き出すことができるのか、そしてこの教訓の上に、何年も前に「我々は今一度、光輝の東洋に回帰しなければならない」と語ったチャンドラ・ボースの「新しい世界の秩序」をどのように作るのかを熟考するためでもあります。

大東亜会議でチャンドラ・ボースが言った言葉を繰り返したいと思います。

「閣下の皆様、私は昨日と本日、この威厳ある会議に参加し、議事を拝聴し、世界史の展望が私の心の目の前をよぎりました。私の思考は、過去100年以上の間に行われた多くの国際会議や会合にさかのぼっています。また、私が国際連盟の議会で、インド解放の根拠を聞いてもらうという空虚な試みのために、次から次へと各国のドアをノックし、1日の間にいくつもの廊下や控室で過ごしたことにも思いを馳せています。
そしてこの歴史的集会に参加して議事を聞きながら、過ぎし日に世界の歴史が目撃した同じような会合と、この会議との違いは何であろうかと不思議の念にかられました。
閣下の皆様、この会議は支配者達の利権を分配するためのものではありません。この会議は弱者を苦しめる陰謀を企てるためのものでも、弱い隣人から詐取するためものでもありません。これは独立した国々の議会であり、国際関係における相互援助や救援、正義と統治権の犠牲主義に基づき、世界のこの地域で新しい秩序を創造するために出現したのです。私はこの会議が、日出づる国の地で開催されたことは偶然では無いと思います。世界が、東洋に光明と手引きを求めて振り向いたのはこれが初めてではありません。過去に他の地域の多くで、世界の新しい秩序を作るといういくつもの試みがありましたが、どれも失敗しています。なぜならば、彼らは利己的であり、強欲であり、新しい秩序を作るに当たって誰が指導的役割を担うべきか疑っていたからです。つまり、歴史の先例と物事の合理性に従い、世界は光明を求めて今一度、東洋に振り向かなければならないのです。」

私はここで興味深い逸話に触れたいと思います。チャンドラ・ボースが東京に着いてすぐ、日本の大将達や外務大臣である重光葵に会いました。ですが、東條首相は直ちには彼に会いませんでした。多分しばらくの間彼を待たせたかったのでしょう。しかし、最大の有力者である黒龍会(玄洋社)の指導者、頭山満の仲介により、それ以上延ばすことなく東條はチャンドラ・ボースに会ったのです。私たちは、東條首相が彼に感銘を受け、すぐにチャンドラ・ボースが出席した帝国議会で、インド独立闘争への全面的支援を約束したことを知っています。

1943年初めに、インド革命軍、すなわちインド国軍の指揮を引き継ぐためにチャンドラ・ボースが東南アジアに来た時、彼はすでにインドでの議会運動における主要な左派の指導者としての名声を得ていました。彼の先見性は、インド独立闘争をはるかに超えたものでした。彼は、国民が政治的な束縛のみならず、経済的、社会的束縛からも自由であって欲しいという、自由インドへの明確な計画を持っていました。

1938年にハリプラにおいて満場一致で選出された議長として、ボースは社会主義の輪郭に沿った経済計画、ローマ字表記のヒンディスタニ(一般人の間で話されるヒンディ語とウルドゥ語の混合語)の公用語化、基本的権利、世俗主義、家族計画や、その他いくつかの重要な課題について提唱しました。彼は初めて企画立案の概念を導入し、今日のインド政府において必要不可欠な計画委員会を立ち上げたのです。

ボース生誕100年となる1997年には、計画委員会は「インド計画の先駆者」という、スバス・ボースに献呈する本を出版しました。この本の中で計画委員会の副委員長は、彼(ボース)の多くの提案は現在のインドにも適切なものであり、主要な部分は今なお現実のものにすることができると認めています。これは、独立闘争の最中において彼の先見の明と洞察力を明確に示しています。

1939年にボースは、議会のガンディー派がインド独立の件で妥協をもくろんでいることに気づき、第二期の議長選挙で争うことを決心しました。彼はガンディー派の候補者パタビ・シタラマーヤを打ち負かせました。選挙の後に結果が出ると、ガンディーは「パタビの敗北は私の敗北である。しかしそれでも、スバスは国の敵ではない」との声明を出しました。

ネルーに援助された議会の右派はあきらめず、ボースに議長職の辞任を強要しました。そこでボースはフォワード・ブロックを組成し、インドの全ての左派政党から成る左派合同委員会を設立しました。

1943年10月21日にシンガポールで、ボースが自由インド仮政府を設立した時、議長として彼自身が作成した多くの計画の演習を実行しました。彼はインド国軍(INA)やインド独立同盟でも、ヒンドゥ教徒、回教徒、シーク教徒達を完全に結束させることができました。英国インド軍では、ヒンドゥ教徒、回教徒、シーク教徒達がそれぞれ別の食堂を持っていたのに対し、インド国軍では一つの共通の食堂を使っていましたが、皆さんは今日でもインド軍にそれぞれの食堂があることを聞いたら驚くでしょう。

ボースがラングーンにいた時、寄付を受け取るためにヒンドゥ寺院に案内されました。彼は、INAのヒンドゥ教徒、回教徒、シーク教徒、キリスト教徒の将校を連れて行くことを主張しました。彼は自身の手本によって、宗教やカースト、信条の違いに関係無く、インドの異なる人々を結束させることができたのです。INAの申込書には、宗教やカーストに関するいかなる条件もありませんでした。

70年以上も前に、ボースがインド解放闘争の主流に女性を置いて、男性の同僚たちと同様の身分を与えたことは注目すべきことです。彼は、女性が平等の権利を与えるまでは、国家は完全な自由を達成できないと強く感じていたのです。.

彼はまた、ヒンドゥスタニを仮政府の共通語として取り入れ、「ジャイ・ヒンドゥ」が共通のあいさつとなりました。

大東亜会議に戻れば、今日の世界にもふさわしいチャンドラ・ボースの演説の一部を、もう一度引用したいと思います。私には、彼に話をさせるよりうまくはできません。

「閣下の皆様がお気づきの通り、初期の頃から普遍主義がインドの思想や文化の特徴でした。昔、仏教や仏教を中心とする諸宗教を通じて、インドは全アジアに手を広げました。
閣下の皆様、大東亜繁栄圏の設立は、東アジアの人々のみならず、私に言わせていただくなら、全アジアの人々、全人類にとって、重要な、極めて重要な事であると、私は謙虚に述べさせていただきたいと思います。」

インドと日本は、チャンドラ・ボースのこれらの感動的な演説以来、より近づきました。インドは、チャンドラ・ボースと自由インド仮政府に心のこもった支援を与えた日本に対して恩義を感じています。日本軍の支援を得たINAはインドの神聖な地に入り、北東部の地にあるモイランにインドの三色旗を掲げました。しかし、早い雨季の到来が強力な空軍力を持つ連合軍と相まって、インパールの前線でINAと日本軍を敗北に導きました。

INAの将校や兵士達は、英国の当局によって捕虜としてインドに連れられて、裁判にかけられました。このことは、インド民衆の心に、 –どこに彼らの忠誠心があったのか? –外国の支配者か、それとも愛国者か? –INAの男や女が戦っていたのは自由のためではなかったのか? –という基本的な疑問を起こさせました。英国インド軍、空軍、英国インド海軍では反抗が起きました。オーキンレック将軍は、インドの所管大臣と提督に、英国インド軍の将校や兵士の共感はボースとINAの側にあり、従って、起こりうるインドの革命を鎮圧することは期待できない、と伝えました。スバス・チャンドラ・ボースは戦いでは確かに負けましたが、インド独立闘争には勝利したのです。

この数年、日本とインドがより親密になり、経済協力や科学、技術、さらに文化分野でも、相互理解が戦略的協力の永続に成熟するのを見るのはとても心強いことです。日本は、あらゆる階層のインド人にとって励みの源でした、そして今でもそうなのです。インド首相と日本は、両国間の結びつきをより密にする双務関係の新しい枠組みを決定しました。我々は今、つながった世界に生きており、従って日本とインド間の産業の親密な協力が、その世界的成功に寄与するでしょう。

1957年に、山本大佐が私の父宛に書いた手紙の最後の数行を読むことで、終わりにしたいと思います。

「私は、彼(チャンドラ・ボース)の道は、アジアの結束と世界の平和にしかなかったことを分かっています。願わくは、彼の精神が私たちを平和の使徒として導いてくれますように。」